●石山緑地
シーズネット「歩こう会」の例会行事「石山緑地に造形の美を訪ねて」に参加した。10:30地下鉄真駒内駅を18名の会員が出発。暑くもなく寒くもない、絶好のウォーキング日和に恵まれて、駅からまずまっすぐに西行。すぐに緑町1丁目の交叉点から「真駒内川」の左岸に沿った遊歩道を南へ上って行く。途中、道警警察学校の裏側を通って旧定鉄の陸橋下を潜ると「石山陸橋」に出てくる。石山緑地はここから北側のブロックと南側ブロックに別れており、南ブロックの方が敷地も広く施設も充実している。
ネガティブ・マウンド
午後の丘(南ブロック最奥部の芝生広場)
●地図から見る石切山の今昔
石切山から切り出された建築用石材「札幌軟石」は、現在の石山陸橋の集積場から馬の背に振り分けられて、現真駒内通、中の島通、平岸通を経て豊平橋を渡り札幌市街地に運ばれた。明治29年頃の地図では、豊平川に架かっている橋は豊平橋のみであった。この地図で石山の採石場の表示はまだないが、明治の初期から採掘・切り出されて利用されていたことは歴史的に明らかだ。
明治29年頃の石切山付近
大正5年頃の地図によれば、石切山からの石材は豊平川を渡船で対岸の「硬石山」の麓に渡し、そこからは石山通に敷設された「馬車鉄道」によって札幌市街に運ばれている。この輸送の合理化によって軟石の運搬量、ひいては採掘量は飛躍的に伸びたと思われる。 地図には石切場の表示が軟石、硬石(建築土台、砕石用)ともに表現されており、軟石は北側の「おいらん渕」付近の採石場よりも、石山(集落が出来ている)の東側の大きな採石場(現在の「石山緑地」に当る)が生産の主体になっているようだ。
大正5年頃の石切山付近
昭和25年頃の地図では、「定山渓鉄道」が開通し、現石山陸橋の付近(陸橋はまだない)の道路下をトンネルで潜って「石切山駅」に出ていた。駅からは定鉄の引込み線が豊平川の狭くなっている場所に仮橋を架けて豊平川を渡り、硬石山の麓まで敷設されており、硬石、軟石ともに鉄道輸送を利用するようになったようで、架橋技術の進歩が覗われる。また、この反対側の山側にも隣の藤の沢駅から豊羽鉱山の選鉱場へ引込み線が引かれている。
また、石切山駅から北へ引込み線仮橋の近くに人道橋が見えるが、前述の硬石山や札幌市街との連絡・交流を強化する目的であったと思われる。しかし、産業としての石材採掘・加工は、戦後、コンクリート建築の普及により衰退していくことになる。この時点でもう馬車鉄道は石材運搬の役割を終え、札幌市民の足として市電に変身している。
昭和25年頃の石切山付近
現在では建築の装飾目的の需要で細々と常盤地区(古い地図では「土場」と表示されている)などで採掘が行われているようだが、地図に表示されている採石場は既に廃鉱し、跡地は歴史を語る公園になっている。