東札幌のコンベンションセンターで「健康と漢方薬」の講演会があり聞きに出かけた。地下鉄東西線・東札幌駅で下車した時点でまずは腹拵えのため、駅地下構内の元スーパーのあった横の蕎麦屋に入る。パソコンの学習会で東札幌に何度か来たことがあるが、いつの間にか駅地下のスーパーが閉店しているのに気が付いた。蕎麦屋の女将の話ではスーパーが閉店してからもう1年経つとのことだった。その影響で蕎麦屋のお客も相当減ったことだろう。食後は時間に余裕があり、まだ歩いたことのない道を歩いてみることにした。
白石村横丁通(大正5年ごろの地図)
地下鉄駅からコンベンションセンターへは、通常、新しいショッピングセンター「イーアス」の前を行くのだが、今日は反対側の「米里行啓通」から廻ってみる。地下鉄を上がるとすぐ前が「南郷通」で中央分離帯に「にせアカシヤ」の並木を植樹された4車線道路が走る。南郷通を白石方面に少し進むと米里行啓通との交叉点に出る。我々の年代では、「行啓通」といえば山鼻から中島公園までの道路名と思っているが、今では「米里」の名前が付け加えられ、幌平橋を経由して菊水元町5条で環状通に接続するまでを指すらしい。行政では札幌圏の広域化に伴って道路名の複合を意図しているようだが、名称を分割しておいた方が分りやすくてよいと思う。
南郷通と米里行啓通の交叉点
南郷通を左手の北東に折れて米里行啓通に入る。この道は、古くからの道で白石と豊平を結ぶ「横町(丁)通(札幌本府通)」として昔の名前がある。横町(よこちょう)とは、国道12号線(江別道)から本通り側の一条三丁目と四丁目間、東札幌は国道36号線(千歳街道)六条三丁目と四丁目間の「米里・行啓通」を、昭和33年(1958)まで「横町通」と称した。同年4月以降、東札幌と改称されてから、公式名からは消えた。横町は白石の本通に対する横丁の愛称で、札幌でも明治5年頃に開かれた古い道路の一つである。
明治4年、白石藩士が厳寒をおかして凍土の上に仮小屋を建てて白石村を開村したが、翌春の融雪期には、出水や洪水に見舞われて人の住める場所ではなかった。さっそく開拓使に申請、豊平、最月寒に近い方に地所の再割渡を願い、最初に横町に入植したのは本通の1番地から7番地までの14戸であった。
明治・大正・昭和を通して、ここは畑地だったし、道路は月寒、豊平に通じるので大いに利用され、治の早い時期から用水堀(2号用水。多分平岸用水の延長部と思われる)もあった。
昭和35年頃、明治乳業札幌工場や大通消防署美園出張所が田んぼの真ん中にでき、人家も急に増え始め、かつて音を立てて流れた「用水堀」も暗渠となり、田畑、水田の姿はまったくなくなって、車の往来のみが激しい。しかし、実際に歩いてみるとアパートや戸建住宅の間にちょっとした空地があり、花畑や野菜畑に利用されている。昔この通りを流れていた用水からの発想か「きよみず公園」と名付けられた街区公園の隣に「東札幌図書館」があり、立ち寄って本2冊を借りる。
コンベンションセンター
図書館の先を北西に折れてしばらく歩くと「札幌市産業振興センター」前の広い通りに出る。今日の目的地のコンベンションセンターがすぐ右手に見えている。