三社神社を後にして旧国道をさらに西へと歩いて行くと、まずははるか頭上を「札樽自動車道」を載せる「張碓大橋」の下を潜り、続いて現国道5号線の大曲の下のトンネルを潜って「軍事道路」へと続く林道に出る。この道は車が通れる幅の砂利道で石倉山の東尾根を上って行くが、比較的よく整備されている。所々で、廃屋や門扉の跡を見ながら、時節柄ヤマアジサイの鮮やかな青色に癒されつつ、3キロほど山道を辿るとやがて石倉山山頂方面との分岐に至る。この辺りの標高が350mで軍事道路の最高点となっている。
(廃屋跡に残る石積み門柱)
(エゾヤマアジサイの花)
(軍事道路の標高最高点から石倉山への分岐を振り返って)
札樽間の朝里-銭函間の海岸線は断崖の続く昔からの難所だが、明治13年にクロフォードによる「幌内鉄道」の敷設を前提として、馬車の通れる路盤が海岸線沿いに開削された。しかし、翌年実際に鉄道が敷かれてみると車馬幅の道路を別にとる余裕はなく、しばしば踏み切りを跨ぐ細々とした道路しかなかった。
(軍事道路地図)
「軍事道路」は、日露戦争に際し海からの敵の艦砲射撃で、札樽間の交通路が破壊された場合に備えて、より安全な後方にバックアップする道路が必要とされた。明治38年に小樽奥沢・龍徳寺前から深く山背を迂回し、毛無山の鞍部を超えて朝里平野の奥地に出た後、さらに石倉山の北側を巻いて張碓台地に抜け銭函で旧道に連なる新道(全長17km、幅3.7m)が軍により開削された。しかし、この道路は勾配・カーブがきつく、大正9年に国道(国道4号線)へ編入されたものの、実際は車馬運行が不可能な状態であったため、利用するものが極めて少なく、廃道に近い状態だった。
その後、昭和9年に現在の札樽国道5号が開通して、こちらは海岸に沿う鉄道線路と近いところを通っている。山側の軍事道路とはまだかなり離れている。明治時代に我が国軍部が恐れていた大国ロシア艦隊への危惧とは裏腹に、昭和の第2次世界大戦の時には室蘭沖の空母から飛来した艦載機の機銃掃射が石狩湾岸を
見舞ったが、不思議と軍事道路の整備の話はなく、軍部でも忘れ去られていたのか、敗戦間際でそんな余裕はもうなかったようだ。