札幌うぉーく点描
2024-03-10T08:52:23+09:00
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おおるり(島松沢)
Excite Blog
豊幌から江別太を歩く(1)
http://northman.exblog.jp/33886893/
2024-03-10T08:52:00+09:00
2024-03-10T08:52:23+09:00
2024-03-10T08:52:23+09:00
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札幌市外近郊
石狩川に合流する幌向川、清真布川が集まる幌向地区は、その昔「幌向原野」と呼ばれ、洪水の常襲地帯であった。「豊幌」は、かって幌向の一部で「幌向太」や「榛の木原」と呼ばれる湿地帯であった。当初は空知郡幌向村に属していたが、郡界がペンケヨシュベ川(現在の夕張川の川床)から旧幌向川に変更となり、豊幌は明冶34年に札幌郡江別村の管下に入っている。近年になって、豊幌は組合の土地区画整理事業により新興住宅地としてJR豊幌駅を中核に発展している。
現在の千歳川は、昔は「江別川」と呼ばれていた。地名「江別太」は、江別にアイヌ語で河口部を意味する「太(プト)」が付いて、一般に江別川河口一帯を示す。広くは、石狩川、千歳川、旧幌向川に囲まれ、南限を南幌町に接する幌向原野西部一帯を指す。
「越後村」は明冶19年北越殖民社の大橋一蔵らが中心となって 幌向原野西北部(江別太)に17戸を試験的に入植させて開拓が始まった。彼の死後、北越植民社の事業は関矢孫左衛門らが引き継ぎ、野幌地区の開拓が中心となった。
実際に江別太に移住した人々にとっては、泥炭層の低湿地と深い原始林は、農耕生活のための開拓には困難な条件として立ちはだかった。この後、何度も洪水による被害を受けたものの、住民の協力と治水工事によって災害を乗り越え、福井や富山などからの新たな入植者も増えて、農村地帯として順調に発展していった。明治40年代から乳牛の導入が始まり、昭和初期には市内の中堅的酪農地域となった。稲作は、水田地帯からの移住者にとって念願だったが、江別太地区は酪農地帯として発展したため、水田を開く計画は抑制される状況が続いた。土地改良によって大規模な稲作が始まったのは昭和30 年代に入ってからだった。
●歩行
雨の合間の晴れ時をみて9月下旬、JR江別駅の一つ先「豊幌駅」に降り立つ。この駅は無人駅で且つホームに跨線橋もなく、岩見沢方面への列車から降りた客は、左右の安全を見渡しながら鉄路を渡って駅舎を出ねばならない。駅舎の形は神社の神明造のようなデザインで、駅正面に掲げられた駅名はローマ字で「TOYOHORO」となっている。日本語の表記はない。また、駅横に建つ公衆電話ボックスは、遊園地顔負けの洒落たデザインで江別市の産業シンボルのレンガ造りとなっている。駅前は幹線道路の国道12号線が線路と平行して走り、さすがに交通量も多い。
(豊幌駅2)
「豊幌(とよほろ)」地区はかつて「幌向太」と呼ばれていた地域で、幌向川が石狩川へ合流する辺りを云い「ポロモイプト」と呼ばれるアイヌのコタン(村)があった場所で、和人がこれに当て字をした。石狩川沿いで明治時代から農村開拓の歴史がある豊幌地区は、明治34年には幌向太が江別村へ編入され、その後大正14年豊幌へと改称した。昭和60年頃より、豊幌駅を中核とし新興住宅街が発展してきた。これらの新興住宅街は平成12年に花園町、美咲町、はみんぐ町として町名変更されている。江別市の豊幌土地区画整理事業(組合施行)の都市開発としては、美咲町が昭和57年~平成2年(20ha)、豊幌中央の花園町・はみんぐ町は平成4年~平成15年30haを開発した。
駅前から国道12号線に沿って岩見沢方面に少し進み、コンビニの角を南に折れると、広い敷地に「盲人養護老人ホーム恵明園」が座る。視覚障害者専用というわけではないようだが、「盲人」とはっきり謳った施設は珍しい。盲人向けの養護対処に特徴があるのだろう。昭和46年開設、定員110名で北海道友愛福祉会が運営している。施設の入口緑地には恵明観音と名付けられた等身大の石像も立っている。
(盲人養護老人ホーム恵明園3)
恵明園を後にその先を進むと、江別市の「豊幌地区センター」の施設があるが、今日は日曜日で閉館のようだ。さらに先の「豊幌川」と名付けられた小川(排水溝?)を横断すると、「豊幌神社」の参道入口に至る。この神社は、明治30年に沼の端神社、大国主神社、明治31年に榛の木原神社、昭和2年に土功組合神社がそれぞれ建立されたが、その後昭和39年に、幌向川の切換えにより揚水機場を移設しなければならなくなった。この際に4社を合祀して豊幌地区全域の守護神とする事になり、昭和41年豊幌神社として合祀された。その後、隣接する豊幌小学校の校舎拡張にともない移転を余儀なくされ、現在地に平成7年に新社殿が造営竣工された。
(豊幌地区センター)
(豊幌神社3)
幌向川の堤防に上がる道路を挟んで神社の向かい側には「豊幌小学校」が座る。明冶31年幌向村育成尋常小学校分教場として創立、大正3年幌向太小学校として独立する。昭和22年学制改革により江別町立豊幌小学校、昭和29年市制施行により江別市立豊幌小学校と改称して現在に至る。現在、生徒数90名(各学年1級、特別支援学級を加えて8学級と小規模の小学校となっている。小学校の生徒通用門側校舎背後には、江別市役所教育部の情報図書館も置かれている。
(豊幌小学校2)
豊幌小学校の前の道路を豊幌川に沿って南西方向に1キロほど進み、美咲町と花園町の間の道路を北西に折れて、花園町にある「豊幌公園」に立ち寄る。この公園は面積2haの広い芝生広場を持ち、水遊びのできる渡渉池やパーゴラ、ペンチ、トイレ、児童遊具を備えている。私が訪れた時は芝生が伸び放題で、日曜日なのに遊んでいる子供は一人もいなかった。小規模小学校で子供の数がそもそも少ない地域に、これほど広々とした公園にやや違和感がある。歩いて行く道端にはもう秋の草花が咲き誇っている。
(豊幌川2)
(豊幌公園2)
(路傍の植生1-4)
(豊幌歩行図)
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札幌村の遺産を訪ねて
http://northman.exblog.jp/33864079/
2024-03-01T07:08:00+09:00
2024-03-01T07:08:55+09:00
2024-03-01T07:08:55+09:00
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札幌東部
●日蓮宗妙見山本龍寺・妙見堂と大友公園
慶応3年、本龍寺の一角に、大友亀太郎は村の鎮守として妙見堂を建立。妙見堂のお祭りである妙見尊大祭は札幌の祭りの中でも最も古い歴史を誇っている。
「大友公園」は大友亀太郎が慶応3年に開いた模範農場「御手作場」の跡地に作られた公園。御手作場に水を引くために掘られた「大友堀」が伏籠川に注いでいたといわれる場所に、その様子をイメージした遊水路と、当時の歴史をわかりやすく解説した歴史解説板がある。
(本龍寺1-4)
(本龍寺2-4)
●札幌村郷土記念館
元村の開祖である大友亀太郎の役宅跡地に建てられた資料館で、昭和52年に開館。亀太郎が開削した大友堀や、元村にまつわる古文書や農機具、生活用具などの資料が展示されている。これらの展示品は、昭和62年に札幌市有形文化財に指定された。記念館の敷地には、大友亀太郎坐像のほか、たまねぎ記念碑、ブルックス顕彰碑も置かれている。
(札幌村郷土記念館4)
(明冶43年頃の札幌村村役場庁舎と大友公園)
現在の地下鉄東豊線「環状通東」駅の周辺は、当時札幌村の中核部で、神社、寺院、村役場などが集まっている。久しぶりに環状通東駅で地下鉄を降りて地上に出、環状通の向かい側の札幌村の遺産を詳しく見てみた。
①本龍寺の周りの築地塀の上から見える「札幌村創建百年碑」は、なぜ外側に向けて建っているか?隣に立つ後光のある地蔵尊は通常の内側を向いて建つのに...。
②妙見堂内に祀られている「妙見大菩薩」は高さ2寸ほどの小仏だが、堂内の厨子に納められて大切に保管されている。札幌開祖の一人、島義勇判官が自分の兜の前立ての守護神妙見菩薩像を眼病治癒を祈って大友亀太郎に贈った木像と云う。
③明冶43年頃の札幌村役場庁舎の模型が郷土記念館の2階展示室正面にあるが、当時としては木造2階建てのお洒落でモダンな建物であったろう。
④同じく記念館の2階展示室には、庚申塚の下に埋められていた酒の徳利が展示されている。庚申塚の風習によれば、60年振りに酒徳利を掘り出して飲むと長寿になると聞くが、話は逆で、長寿に恵まれたから飲める酒でもあろう。
⑤近くにはフシコサッポロ川が流れているのに、大友亀太郎はわざわざ「大友堀」を開削して農業用水を引いたのか?フシコサッポロ川の水量が十分になかったのか、お手作場の地形の関係でフシコ川から揚水ができなかったのか?
⑥それにしても、札幌開祖の恩人2人とも明冶3年頃には前後して札幌を去っている。島義勇は札幌建設費用の過大から判官を罷免され、大友亀太郎は母親の病気を気遣って故郷に帰った。
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野幌原始林を歩く(2)
http://northman.exblog.jp/33843441/
2024-02-20T07:05:00+09:00
2024-02-20T07:05:21+09:00
2024-02-20T07:05:21+09:00
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札幌市外近郊
(野幌原始林林道入口2)
(中心広場4)
中心広場の案内板によれば、この先には「休憩広場」に進むコースもあるようだが、散策路が途中で進入禁止となっており、それとは別の2番レストコーナーに至る道を選ぶ。500mほどで元の林道に戻り、ここのレストコーナーにも同じようなテーフセルとベンチのセットが置かれている。ここで時間は正午頃となりベンチに座って昼食休憩とする。それにしても、もう都会では見られないほどの多くのトンボがベンチの周りを舞う。子供の頃の昔を思い出す。
この林道の奥には丸太組みの「展望台」があって、かってはそのさらに奥に続く林道を約2.5キロほど辿ると、農林水産省所管の研究施設「種苗管理センター」の中央農場の横から椴山大曲通に出て、エルフィンロードに接続することが出来た。しかし、最近、中央農場前を歩いたところ、その出口は農場の苗圃の一部となって、鉄網掛けの立入禁止と変わっている。今回、まあ、行けるところまで行ってみようと、昼食休憩後500mほど林道を上る。確かに展望台は昔のままに存在していたが、展望台の奥の林道延長入口ははっきりとこの先立入禁止の措置が採られている。
(展望台4)
元来た林道を約1.5キロほど一路下って、林道入口のゲートを越えて林道・中の沢口に出る。大曲通から北進通を南に折れてJR北広島駅西口に向かう。それにしても、ウイークデイの午前中ではあるが、林道の途中で女性のハイカー1人に出会って言葉を交わしただけの寂しい一日であった。ボールパークも悪くはないが、子供たちの自然との絆が切れないように祈りたい。
(レクリエーションの森歩行図)
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野幌原始林を歩く(1)
http://northman.exblog.jp/33831970/
2024-02-10T07:24:00+09:00
2024-02-10T07:24:30+09:00
2024-02-10T07:24:30+09:00
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札幌市外近郊
明治6年、北海道開拓使によって現在のおよそ2倍の面積となる5,607haが官林に指定される。明治18年に野幌屯田兵村が置かれると、民間の開拓もあって伐採と開墾が進んだ。明治23年には皇室財産の御料林となり明治27年御料林解除)、明治28年には禁伐林に指定されたが、明治32年に町村制が敷かれると北海道庁から江別・広島・白石に官林を分割払い下げする方針が発表された。すると、新潟県から入植して野幌官林を水源涵養や風防にしてため池を作り、数百町歩の水田を開拓していた北越殖民社指導者の関矢孫左衛門らが反発し、北海道庁長官への陳情の末にこれを阻止した。明治41年に国有林となり、3,427haが野幌林業試験場の試験林となった。明治42年に禁伐は解除されたが、大正10年に322haが野幌原始林の名で「天然記念物」に指定された。
太平洋戦争の最中は防空などのために森林が伐採され、終戦後は復員した軍人などが無断で入植して開墾した結果、2,198haが農地として解放されることになった。昭和26年に第2回「北海道植樹祭」が開催された。以後、森林内の国有林、道有地で複数回開催している。野幌原始林は昭和27年に「特別天然記念物」となったが、昭和29年の洞爺丸台風により大きな被害を受けて復旧保存が困難となり、昭和34年に千歳線以北部分の指定が解除され、昭和37年には千歳線以南の一部を除いて指定解除となった。現在、特別天然記念物に指定されているのは、野幌森林公園外の国有林(北広島市西の里)の3ケ所39.7haのみとなった。
昭和41年、北海道百年記念事業の一環として野幌に記念公園と記念地区を設けることを決定し、昭和43年までに林内の民有地297haを買収するとともに「道立自然公園」の指定及び公園計画を策定。昭和45年には北海道百年記念塔、昭和46年には北海道開拓記念館(現在の北海道博物館)、昭和58年には北海道開拓の村がオープンした。
平成16年台風第18号では大きな風倒被害を受けたが、石狩地域森林ふれあい推進センターが中心となり、市民と協働して自然林を再生させる「野幌森林再生プロジェクト」を実施している。
●北広島レクリエーションの森
江別市から北広島市に広がる野幌丘陵地に広がる「野幌原始林」の一部に「北広島レクリエーションの森」がある。これは、林野庁が全国の国有林の中で、山岳、湖沼などと一体となった美しい森林や野外スポーツに適した森林を「レクリエーションの森」に選定し、広く国民に森林レクリエーションの場として提供している。それぞれの森林の特徴や利用の目的に応じて、(1)自然休養林、(2)自然観察林、(3)風景林、(4)森林スポーツ林、(5)野外スポーツ地域、(6)風致探勝林に区分され、「北広島市レクリエーションの森」は「森林スポーツ林」に区分されている。また、指定範囲が市内にしかない「特別天然記念物 野幌原始林」が隣接している。
石狩森林管理署では、レクリエーションの森の全般を管理し、林間学園(AED設置場所)では自然観察や体験学習のセンターとなる研修棟と、野外での炊事や活動が楽しめる広場があり、唯一火気が使用できる場所となっている。開園時間(10~17時)中は、管理人が常駐している。
主な施設:
1)冒険の森
令和3年度の大雪の影響により、遊具が損傷したことから、アスレチックコースについては利用を休止している。
冒険の森は、起伏に富んだ地形を利用して木製遊具をそろえたアスレチックコースとなっている。谷から山へ、山から谷 へと駆け回れるコースで、遊びながら体力や忍耐力が養われる、大自然に囲まれた絶好の体験の場だ。
2)中心広場(約9,000㎡))
駐車場から林道を歩くと、木立の中に休憩用の東屋やベンチ、トイレを設置。
3)水辺広場(約3,500㎡)
林間学園広場の一段低いところにある広場。
4)休憩広場(約1,800㎡)
森の中にぽつんと広がった広場のベンチに座り、鳥たちのさえずりを楽しめる。
5)修景池
冒険の森を水源とする湧き水を集めた池には、トンボをはじめ、様々な昆虫が生息している。
6)散策路(外周約4キロメートル)
広場や展望台は散策路で繋がっており、途中には木製のテーブルやベンチを備えたレストコーナーもある。
7)展望台(高さ約6.6メートル)
展望台からは成長する森の様子を見ることができる。
●歩行
「北広島開拓記念公園」の見学を終え、その足で「北広島レクリエーションの森」と隣接する「天然記念物野幌原始林」に向かう。市街中心部の十字路に戻って、北広島市庁舎を横に見ながら道道1080号「栗山広島線(大曲通)」を西に辿る。JR千歳線のガード下を潜って500mほど進むと「北進通」と交差する。この道は、最近、Fビレッジへの取り付け道路の一つとして再整備され「ボールパーク通」の名称でも呼ばれている。眺めのよい道路は「輪厚川」を高架橋で渡り500mほど上って行くと、「北広島高校」の正面に出て背景にはポールパークの三角の大屋根が聳える。高校校舎とは道路の反対側にレクリエーションの森への入口が開いている。
(レクリエーションの森入口4)
(管理事務所林間学園4)
森の入口には分かりやすい総合案内表示板が立っていて、これからの歩行コースを検討する。今回は時間的に全部のコースは廻れないことと、過去の自然災害の修復が遅れていて。利用休止中の施設や進入禁止のコースもある。私は、林間の水辺のコースを好むので、管理事務所前から谷に下り水の広場修景池を廻って、野幌原始林林道・中の沢口に至る道に出ることにする。林道入口には車両通行を禁止する頑丈なゲートが座っているが、ハイカーは自由に通り抜けられる。林道を上って行くと、途中には所々に木製のテーブルやベンチの置かれたレストコーナーがあって、休憩はもとより再びレクリエーションの森に戻るコースの起点ともなっいる。
(水の広場修景池2)
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北広島開拓記念公園を訪ねて
http://northman.exblog.jp/33817224/
2024-02-01T07:21:00+09:00
2024-02-01T07:21:19+09:00
2024-02-01T07:21:19+09:00
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札幌市外近郊
(北広島の開拓と発展・案内板)
9月上旬、北広島駅に降り立ち駅東口正面の交差点を北へ折れて道道46号江別恵庭線(広島本通)を進む。廣島神社から広島本通を挟んで向かい側の段丘下裾に、昭和59年に開基100年を記念して造園された「北広島市開拓記念公園」がある。広島本通の坂を下って、北広島市役所庁舎の元町通り交差点まで行かないと公園に出られない。その割には、辻々に目立った案内はなく市の広報としては改善すべき点だろう。
(廣島神社)
(開拓記念公園地図)
公園内にはさまざまな碑があり、中心には「ひろしま100」のシンボルマークを模した「飛翔」、他にも広島市との交流の証に被爆石で造られた「交流の翼」、和田郁次郎邸跡から移転された「廣島村この地にはじまる」の碑などがある。また、北広島市の歴史を記載した説明板がところどころに配置されていて、太古からの北広島の足取りを学びながら、散策を楽しめる。園内には芝生が広がり、開拓時代の水源地より湧き出す水辺も作られていて、明るく心地よい公園となっている。
スズカケの大樹の下では近くの幼稚園児が遊びに来ている。
(「飛翔」の碑2)
(「交流の翼」碑)
(「ひろしまこの地に始まる」碑)
(湧き水の水辺)
(スズカケの大樹)
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西の里の南を歩く(2)
http://northman.exblog.jp/33795684/
2024-01-20T06:53:00+09:00
2024-01-20T06:53:13+09:00
2024-01-20T06:53:13+09:00
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札幌市外近郊
(北広島ロータリー4)
(北広島ロータリー GoogleMapより)
道内では珍しいロータリー交差点の佇まいを十分に観察した後、椴山大曲線道路を大曲方面に進む。500mほど先の道路の南側に「野幌原始林」への林道入口が現れるはずと思っていたら、種苗管理センター北海道中央農場長名で何と立ち入り禁止の標識看板とワイヤーで編んだ柵があって途方に暮れる。以前、ここを通ったのは10年以上前だから、その後種苗の衛生・防疫のために管理が厳しくなったようだ。とりあえず看板前に座り込んで昼軽食休憩とする。
(中央農場と立入禁止看板2)
(種苗管理センター農場衛星写真)
地図によれば、ここから道道1180号線をボールパークまで約2.5キロ、逆に種苗管理センターの広い農場を左右に見て椴山大曲線を南西方向には約2キロの距離と概算する。余り大きな差はないので、せっかくの機会を生かして初めての道を選で進むことにした。種苗管理センターの中央農場は、椴山大曲線道路を挟んで入口門近くにある管理棟や職員関係者の宿舎がある他には、広大な敷地に様々な種苗の圃場が広がる。いずれも主要な搬入路入口には車のタイヤを洗う防疫プールが備わっている。
(西の里南部歩行図)
椴山大曲線を南西に2キロほど進むと、やがて幹線の道道1080号「大曲通」に交差する。この道路には中央バスの広島線が走っていて、交差点近くに「農場入口」のバス停がある。バス便は1時間に1本程度の閑散路線だが、丁度待ち時間も少なく、福住駅から北広島駅前への路線バスが来るを待つことにした。バス停の付近には夏の終わりを告げるワタゲアザミとセリ坊主が咲き乱れている。
(ワタゲアザミとセリ坊主2)
ほぼ定刻で来たバスに乗り込み、道都大学前を経由して道営住宅団地へ上がり、「松葉町1丁目」バス停で下車する。目的は、北広島市の「広葉交流センター」内にあるエコミュージアム「知新の駅」を訪問・見学することにある。
(北広島交流センター2)
北広島団地は段階的な世代の入れ替わりが行われなかったことから、他の地区と比べ高齢化と人口減少が進行している。路線バスの利用者の減少、児童生徒数の減少による学校の統廃合、空き家の増加等の問題が生じている。北広島団地の再生を目指して、行政、市民、関係団体が一丸となり全力で取組んでいる。
平成24年に学校としての役割を終えた広葉小学校跡施設は、学校跡施設利活用計画に基づいて、複数の機能を備えた複合施設として活用することとし、平成26年「広葉交流センター」がオープンした。市民の交流・会合・懇親などの場を提供するとともに、内部にエコミュージアム「知新の駅」を開設し、北広島市の豊かな自然、歴史等についての情報の収集や発信、展示といった役割を担う。
(知新の駅パンフレット)
常設展示コーナーでは、地球の歴史や北広島市で発見された地層、化石などの自然史についての展示や、北広島市にゆかりのある3人の先人について紹介する郷土史の資料を展示しているほか、たくさんの市民の方と共に制作した親子マンモスの模型なども展示している。また企画展示コーナーでは、年に2~3回程度、さまざまなテーマで展示をしている。
知新の駅を見学した後、団地内の遊歩道「トリムコース」を歩いて北広島駅西口に出、快速エアポートに乗車して札幌方面に戻る。
(交流センター:北広島駅歩行図)
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西の里の南を歩く(1)
http://northman.exblog.jp/33779988/
2024-01-10T10:33:00+09:00
2024-01-10T10:33:08+09:00
2024-01-10T10:33:08+09:00
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札幌市外近郊
北広島市の北西部、北は熊の沢川、南縁は輪厚川に挟まれ、種苗管理センター北海道中央農場と天然記念物野幌原始林がその広い敷地の大半を占める地域は「西の里」と呼ばれている。西の里は、広島村の字野幌・字下野幌が昭和10年に合併したことにより誕生した。
西の里開拓の先駆者は、明治22年に入植した阿波(徳島県)の蜂須賀藩の家老の家柄であった三河林蔵。このあたりの山林には明治18年頃にはすでに杣夫(そまふ)とよばれる林業者が入っていたが、林蔵は家族を伴い一家で居を構え、背後の山を少しずつ切り開き、畑を拡げていった。林蔵は、立花川と野津幌川の合流地点付近に住まいし、明治39年から41年にかけて広島村議会議員などを務め、大正9年、自ら所有する土地を他者に譲り徳島に帰郷した。
大曲・島松・広島開墾地の3集落が明治27年に月寒村から分村し、「広島村」が開村する。その頃の西の里は「野津幌官林」の範囲内だった。北海道庁は明治28年「北海道土地払下規則」に基づく移住民の公募を行ない、約100戸程が今の西の里に入植した。明治30年には「北海道国有未開地処分法」が公布され、自ら開墾した土地が無償で与えられ、これにより西の里の開墾地がさらに広がった。明冶23年に広島街道(現在の国道274号線)が開削され、明冶40年には野幌分教場設置、大正15年には旧千歳線が開通する。
「農研機構」は、我が国の農業と食品産業の発展のため、基礎から応用まで幅広い分野で研究開発を行う機関で、この分野における国内最大の研究機関であり、職員数約3,200名(正職員のみ)、年間予算742億円(うち運営費交付金639億円)[2021年度決算]。全国各地に研究拠点を配置して研究活動を行っている。
農研機構は明治26年に設立された農商務省農事試験場にその起源がある。農林水産省の試験研究機関の時代を経て、平成13年に独立行政法人として発足した。以後、数回の統合を経て平成28年に現在の「国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構」(農研機構)となった。茨城県つくば市に本所があり、研究開発の成果を社会に実装するため、国、都道府県、大学、企業等との連携による共同研究や技術移転活動、農業生産者や消費者への成果紹介も積極的に進めている。北海道には、中央農場(西の里、後志真狩に分室)、胆振農場、十勝農場の3ケ所に農研機構の種苗管理センターが置かれている。特に、ばれいしょの原種の管理、育成に注力している。
●歩行
例年になく蒸し暑かった8月下旬のある日、JR千歳線上野幌駅で下車する。ここから「エルフィンロード」を歩き、途中の「椴山」から南に折れて野幌原始林を散策する計画を立てた。もう10年以上も前になるが、北広島駅から歩くスキーで野幌原始林に入り、種苗センター北海道農場の横から椴山に出、野幌森林公園を縦断して、JR大麻駅を終点とするウォーキングをした経験があった。今回は、徒歩でその逆のコースをイメージした。
JR上野幌駅から自転車・歩行者専用道「エルフィンロード」までのアクセス道路を探して、とにかく駅南の市街地を東に進む。途中、国道274号三川街道への枝道を入り込み、正しい道に戻る錯誤はあったものの、思いがけず「西の里」の歴史に遭遇した。野津幌川を渡る小橋の袂には「下野幌倶楽部」と表札の懸かった平屋ブロック造りの民家がポツンと建っているが、現在では窓に板が打たれて使われているようには見えない。建物自体はそう古いものではなく、地域の交流・集会場として使われていたのであろうか。
(JR上野幌駅と下野幌倶楽部2)
元来た道を少し戻って、順天病院から大曲に至る道路を跨ぐサイクリングロードに接続する小道を辿ると、案内板通りエルフィンロードに乗る。「エルフィンロード」は、昭和48年廃線となったJR千歳線の旧線の跡地をサイクリングロードに転用した、北広島市区間内の札幌恵庭自転車道線の愛称だ。平成16年に開通し、札幌市の中心部からのサイクリングロードが北広島市までつながった。JR千歳線に沿って延びた約8.1キロメートルの区間は、高低差も少なく、豊かな森や四季折々の自然景観をゆったり楽しめるのが特徴。さらに、ベビーカーや車イスでも安心して通れる広い幅員の区間を設けるなど、安全性や快適性にも十分配慮されている。
(エルフィンロードアクセス2)
(エルフィンロード歩行図)
エルフィンロードを北広島方面へ2.5キロほど進むと、野津幌川に向いた側に「学習の森」と名付けられた林地の入口に至る。取り立てて目立つ設備はないが、小規模の林間に遊歩道が配され、野幌地区の代表的な広葉樹や小鳥、昆虫などを観察学習するのだろう。林間で余り展望のよくない展望台があるのはご愛嬌か。入口に木造・山小屋風のトイレやパーゴラ、ベンチがあるのはありがたい。コースの周辺には多くの植生と秋の野草が顔を出している。
(学習の森4)
(路傍の野草4)
学習の森を後に1キロほど進むとロードの左手に上りの細い踏み分け道があって、ここを辿ると椴山大曲線道路に交差する。この辺りはボールパークとの接続で最近大幅に改修・整備された。椴山方面へはJR千歳線を跨ぐ道路橋(農場橋)が懸かっており、下の鉄路を行き来する列車がよく見える。
(千歳線を眼下に望む2)
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生振を歩く-2023-(2)
http://northman.exblog.jp/33764429/
2024-01-01T06:49:00+09:00
2024-01-01T06:49:03+09:00
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jce01274
札幌市外近郊
生振神社を後にして五線道路を南に辿ると基線道路との角地は生振小学校旧跡地で、平成2年開村120年祝賀事業として小公園「創生園」を造った。ここには生振地区開拓の歴史を物語る多くの記念物、石碑が配置されている。
(創生園1-4)
(創生園2-4)
「学校田と碑」:昭和60年から始まり、平成2年開村120年記念事業の一環として「学校教材田」として造田された。
「水鴻恩碑と揚水機二基」:田畑の灌漑用水の汲み揚げに使われた大型のタービンポンプが記念物として置かれている。
「平和祈念之碑」:戦没者の慰霊碑として立派な祭壇積みの祈念碑。
「岩鉄」:生振の田畑の中に埋まっていた1m立法体の大きな酸化鉄の岩塊。もう説明板の文字も錆びていて読めない。
「生振開村百二十年碑と石狩花畔土地改良区碑」:
「馬頭観世音碑」:この一角には古い3基の馬頭観世音碑が大小並んで座っている。
●生振小学校
創生園から基線道路に入ってすぐ道路の向かいには生振小学校が座る。生振小学校は明治29年生振尋常小学校として開校。昭和56年に火事になり現在地に移る。現在は特認校となり、水田を耕すなど自然との係わりを持ちながら特別な教育を行っている。全市から80名の児童が通学しているが、生振の子どもは1人もいないと云う。
(生振小学校1-4)
(生振小学校2-4)
「開校百年碑」と「生振中学校統合祈念碑「悠久」:
「供養碑」:昭和39年建立。教材に使われたカエルやバッタ、チョウなどの慰霊のため児童が発案して実現した。
「生振にあった元小中学校の門柱群」:生振尋常高等小学校をはじめ3校3対の門柱が並ぶ。
●禅宗妙心寺派春光寺
明治27年に入植した愛知団体のリーダー長江恒三郎が禅宗の檀徒であったことから、明治29年に現在地に草庵を造作したのが春光寺の起源。明治31年妙心寺派本山直轄寺院として建てられる。寺の境内には立派な馬頭観音堂や納骨堂が建つ。
(春光寺4)
「馬頭観音堂」:生振馬頭観世音菩薩像は、明治32年に香川県より旧茨戸渡船場に安座、平成25年春光寺境内に移転建立。
「本堂」:大正2年建立、本尊の釈迦牟尼佛((江戸時代作)には延宝9年の銘がある。
●参泉小学校跡地と保存木アカダモ
春光寺を後にして三線道路を南に進み、国道337号道央新道を越えて1キロほどで農協の倉庫群が集まる場所に出る。道路の東側には明冶36年開校の元参泉小学校があった。今では昭和26年閉校し生振小学校へ統合されたが、敷地の一角に「愛郷」と彫られた記念碑が座る。元小学校の名前は当然「三線」を意味したと思われるが、読み方は(さんいずみ)。
道路の向かい側西には、樹齢300年以上とされるアカダモの保存木がどっしりと座っている。
(参泉小学校跡地とアカダモ2)
●漕艇研修センターと観音橋
さらに三線道路を南に進んで、国道337号道央新道を越えて1キロほどで、筋違い道路との交差点に至る。この角地に私物らしい大きな自然石があり、「開拓碑」と呼ばれている。この辺りからひろばろとした茨戸川が眺められ、対岸にはガトーキングダムの施設群が聳える。「漕艇研修センター」を横に見て堤防上に造られた「観音橋」を渡って北区東茨戸地区に入る。帰りは、ここのバス停で中央バスが来るのを待つ。
(路傍の植生2-4)
(近茨戸4)
今回、10年振りに生振を歩いてみたが、散村状態は大きな変化も見られず、地域の活動は全体的に停滞気味と思われた。地域の中心部の創生園付近も、唯一あった商店は看板を卸し、消防分団の火の見やぐらは駐車場の整備のためか、撤去されていた。
(生振全歩行図)
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生振を歩く-2023- (1)
http://northman.exblog.jp/33725115/
2023-12-20T06:59:00+09:00
2023-12-20T06:59:19+09:00
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札幌市外近郊
「生振(おやふる)の地名はアイヌ語に由来し、一説には「オヤフ?(o-ya-hur)」(尻が・陸地〈についている〉・丘)が原義とされている。これは、現在の石狩川が直流化される以前は、蛇行する旧石狩川(現:茨戸川)により袋のように包まれていた土地であったことに由来する。
生振は四方を石狩川と茨戸川に囲まれている。周辺の地域とは橋で結ばれており、花畔大橋が石狩市新港南、茨戸大橋が同市花川東、生振大橋が札幌市篠路町拓北に通じている。かつて茨戸川が石狩川の本流だった頃、河道が大きく曲がりくねる場所に位置する生振は、雪解けや豪雨のたびに氾濫に見舞われ、住民農家を悩ませていた。そこで大正7年から河道を直線に付け替える捷水路(ショートカット)工事が行われ、昭和6年一連の石狩川治水工事の完成によって頻発する水害から解放された。
(生振石狩川広域図)
和人の入植以前、この地には豊川アンノランをエカシ(長老)とする石狩アイヌが住んでいた。明治4年、旧米沢藩士の玉木琢蔵に引率された、宮城県と山形県の移民29戸が入植する。彼らは「玉木団体」と呼ばれ、アンノランの助けを借りながら開拓に着手した。明冶24年の濃尾大地震で被災した愛知県の有志団体56戸が、明治27年に生振村に入植する。明治35年、二級町村制の施行により、生振村は周辺の町と合併して石狩町の一部となる。
昭和30~40年代の生振は稲作が盛んで、農繁期には東北地方からの援農を多く受け入れていたが、昭和45年になると米の生産調整が始まり、農作業の機械化による省力化も相まって、東北からの出稼ぎ労働者を頼むことはなくなった。
●歩行
10年振りに生振を歩いてみた。前回は茨戸川緑地訪問の後、生振大橋を渡って生振に入ったが、今回は、地下鉄麻生駅から「ばらと霊園」の無料送迎バスを利用させてもらった。さすがにお盆が近いこの時期、混雑しない内に早めに墓参を済ませようとする人々でバスは満席になり、予定時刻よりも早く出発した。バスは、国道231号創成川通から茨戸大橋を渡り、国道337号道央新道を東に走ってノンストップで生振北東部にあるばらと霊園を目指す。
(生振全歩行図)
●ばらと霊園
宗教法人弘照院が昭和55年に開山、現在まで約4万5千基の墓所が地盤のよい砂地の13万坪の広い平らな敷地に整然と座る。総本殿三十三間堂、鳳凰五百羅漢堂、宗教庭園・北海道八十八ケ所総霊場などの施設を備える。宗旨、宗派を問わず真言宗醍醐派本山の弘照院が永代管理・運営する。霊園の北側には、新しい墓所を広げるための敷地がまだ十分にある。
(ばらと霊園4)
ばらと霊園を俯瞰した後、霊園の八線道路の向かい側「勢至観音堂」を訪問する。
●勢至観音
大正11年に開堂した「生振勢至観音堂」には、北海道内各地から病気に苦しむ人達が訪れ、治癒を祈願してきた歴史がある。大正期からの設計図や写真・絵はがき、奉納された絵馬など多くの資料を通して往時の姿を伝えている。地域文化や庶民の生活・信仰についての貴重な記録が残っている。
日本では、勢至菩薩が単独で信仰の対象となることはきわめて稀で、多くは阿弥陀三尊の脇侍として造像された。観音菩薩が宝冠の前面に化仏を表すのと対照的に、勢至菩薩の場合は水瓶を付けることが多い。来迎形式の阿弥陀三尊では、観音菩薩が蓮台を捧げ持つのに対して、勢至菩薩は合掌する姿で表される。
観音菩薩は仏像だけでなく、彫刻の彫り物としてもよく見かけ、霊園の合葬墓などにお祀りされているのに対して、勢至菩薩の仏像はあまり見かけないが、観音菩薩と同じ役割を担っている。 勢至菩薩の力とは観音菩薩と同じく阿弥陀如来を筆頭にして、死者を救済して極楽浄土へと導くような 慈悲 に満ちた静かなる活動を象徴する。観音堂の本尊とは別に、傍らには小振りの堂宇が置かれている。
(勢至観音堂4)
●生振天照大御神碑
ばらと霊園の北縁を東西に走る北一号道路を西に辿るとすぐ、地域の集会所らしき建物の裏には古い軟石製の「生振天照大御神」の石碑がポツンと建っている。天照大御神(天照皇大神)は生振神社の主神であり、多分最初に入植した玉木団体の人々が小祠とともに建てた石碑と思われる。付近の農地区画を流れる用水は清澄で水量も多い。
(生振天照皇大神碑と用水路2)
(路傍の植生1-4)
●日正寺生振分院(生振霊園)
さらに北一号道路を500mほど西に進んで六線道路を南に折れると、日正寺生振分院と奥に生振霊園が広がる。このお寺の本院は、地下鉄麻生駅のすぐ近くにある日蓮正宗法泉山日正寺で、明冶39年江別村で開基。大正7年に札幌で開教する。昭和63年にはここ生振の地に生振分院と墓苑を開苑する。参道正面に日蓮宗三上人を記念した三柱が建つ。
(日正寺生振分院と生振霊園2)
●生振神社
北一号道路に戻り再び西へ進み五線道路を南に折れるとすぐ「生振神社」の神域が広がる。明治6年玉木団体が七線北三号に小祠を建立し、祀ったのが発祥。生振神社は4回移転し、明治40年に現在地に移遷鎮座した。昭和43年には北三号にあった伏籠神社を合祀する。神社入口の鳥居の横には、愛知県団体の開拓記念碑がずらりと並ぶ。
(生振神社2)
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旧中の川・新追分川を歩く(2)
http://northman.exblog.jp/33674447/
2023-12-10T07:31:00+09:00
2023-12-10T07:31:02+09:00
2023-12-10T07:31:02+09:00
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札幌北部
鉄道線路の近くまで来ると線路を横断する踏み切りがなく、向こう側に出られない。近くで線路を跨ぐ道路橋が北西側に見えているので、そこまで戻って道路橋の上に出る。この位置は、古い地図では踏み切りになっているのだが、最近跨線橋道路に置き換えたようだ。「西宮の沢・新発寒通」という名の道路橋の上からは療養型の病院である「宮の沢病院」の建物がよく見える。
(追分川1-4)
(追分川2-4)
鉄路の南側で元の川の延長部に戻ってさらに南へ進む。ここからの川名は「追分川」となる。これからは追分川に沿って目まぐるしいほどの数の小橋を渡って行くが、その一番最初の橋名には「炭鉱1号橋」と記されており、歴史を辿る縁(よすが)になる。街中の橋の造りは基本的に護岸で囲まれた排水溝然としたものだが、護岸の中に下りられるよう踏み段があったり、遊歩道が走っていたり、変化に富んでいる。幹線道路「北5条手稲通」の下を潜って追分川を追って行くと、すぐに現中の川から分水する地点に至る。分水堰の仕組みは簡単ながら、多少の水位の変化があっても分水が途切れぬように工夫が施されている。
(追分川3-4)
(追分川4-4)
(追分川南歩行図)
ここまで追分川を見届けた後、北5条手稲通に戻って帰路「地下鉄宮の沢駅」を目指す。
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旧中の川・新追分川を歩く(1)
http://northman.exblog.jp/33642376/
2023-12-01T07:25:00+09:00
2023-12-01T07:25:23+09:00
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札幌北部
「稲積公園」の辺りは、手稲前田地区の東端で旧炭鉱排水を挟んで新発寒地区に接する。地域一帯は、大部分が泥炭層のうえに、手稲山を源とする中・小河川の末端が集中した湿泥地だったため、全くの農耕不適地であった。そこで、牧草地作りを行い、乳牛の育成を中心とした酪農による開拓の振興を図った。前田農場開設に続いて、明治末期から大正にかけ、曲長農場、興農園、極東農場、明治牧場、稲積農場などが相次いで開設され、昭和30年代までは、マンサード屋根の牛舎やレンガ造りのサイロが建ち並ぶ酪農地帯であった。
その後、稲積地区の付近に工場の建設が増えて地下水位が低下し、酪農経営に支障が出て離農する農家が出てきた。昭和49年、札幌市の協力を得て「稲積地区土地区画整理組合」を設立し、土地改良と下水道工事を進める中、面積105ha、総事業費70億円の宅地開発を推進・完成し、現在は一面に住宅宅地が広がっている。
(富丘通の道路高架橋)
中の川と追分川は、以後ともに大幅な水路整備が行われ、初期の自然水路が痕跡程度残るだけとなったが、前田3条3丁目北縁の「のぞみ公園」近くの「旧中の川揚水機場」で現中の川に合流するまで、「旧炭鉱排水」を経由して「旧中の川」が流れ、JR函館本線の鉄路の南側では人工導水による「新追分川」の水路が接続された。街中住宅地を流れる小河川では小さな橋が多数架かっている。
●歩行
このところの天候はちょっと不安定だが、合間を縫ってウォーキングに出かける。JR稲積公園駅で下車、「富丘通高架道路橋」を渡って「稲積公園」の前に出る。この公園は、18.2haの広い運動公園で、各種の運動施設のほか、今夏の季節、子供たちが喜んで遊ぶ大きなプールを持っている。今日も気温は高めで、さぞやプールサイドも盛況なことだろう。
(稲積公園とていねプール2)
(前田のぞみ公園周辺4)
現中の川を渡って「前田のぞみ公園」に入る。この公園のすぐ北側に「旧中の川排水機場」のポンプ施設が座る。ここは現中の川と旧中の川の合流地点で、豪雨などの折には2つの川の水量調整ができるのだろう。ここからは、旧中の川に沿った遊歩道を南に一直線に辿って行く。遊歩道は川の両側に配置され、ベンチやパーゴラもあり、花壇などに季節の花が咲き乱れている。この川筋は全域が「旧中の川緑地」として整備されている。また、水流の少ない川筋はビオトープ風な造りで親水施設となっている。川に架かる人道橋も子どもを意識して「とんぎょ橋」とか「わらび橋」と名付けられている。
(とんぎょ橋周辺4)
(旧中の川緑地4)
ここから南のJR函館線の鉄路までは、元々、「炭鉱排水」という名前が付けられており、近くの勤労者団地を造成した炭鉱会社が排水溝を拓いて市に寄贈したという話や、開拓使から受け継いだ炭鉱鉄道会社が線路の路盤保全のために、排水溝を開削したとの説がある。2つの説は時代が大きく異なっているから詳しく調べれば、どちらが正しいか分かるのではなかろうか。私の感じでは歴史の古い線路路盤保全説を採用したい。
(宮の沢病院2)
(旧中の川北歩行図)
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北大苫小牧研究林を訪ねて
http://northman.exblog.jp/33611417/
2023-11-20T07:21:00+09:00
2023-11-20T07:21:52+09:00
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道内各地
北海道大学の「北方生物圏フィールド科学センター森林圏ステーション」として、道内では北管理部に所属の手塩研究林、中川研究林、雨竜研究林があり、南管理部に札幌研究林、苫小牧研究林、檜山研究林が所属している。
苫小牧研究林は、明冶37年内務省から胆振国勇払郡苫小牧村所在国有林が札幌農学校に所管換を受け、苫小牧演習林として発足した。現在の面積は約2,700ha (27平方km)である。当地は北海道中南部太平洋側の工業都市苫小牧市の市街地に隣接し、札幌から約60kmで、研究林の中では大学本部キャンパスから最も近い位置にある。森林の約25%が人工林で、その他は広葉樹二次林と天然林で占められている。落葉広葉樹が優占する天然林もその多くが風害跡などに成立した林で、ほぼ全域が火山灰性土壌で覆われ、冬期は積雪が少なく土壌は深く凍結する。複数の湧水河川が流れ、大規模な湿原にも隣接している。現在は、生物群集の維持メカニズムの解明、森林と河川の相互作用、生物遺伝子資源の保全手法の開発、森林の多目的利用と共生系のモデル作りなどを課題とした研究を行っている。本林は都市部に隣接する平地林で、試験研究や学生実習、職員研修などだけでなく、学部を超えて広い分野で利用されている。また、地域住民や観光客の休養緑地としても親しまれている。利用できる付帯施設として、宿泊施設(定員=38名)、自炊棟(定員=8名)、森林資料館、 森林記念館(国登録有形文化財)がある。
(苫小牧研究林地図4)
施設の特徴として、苫小牧市の市街地に隣接する27平方kmの森林は約9割が落葉広葉樹林で、残りが針葉樹の人工林となっている。森林を構成する樹木の調査のほかに哺乳類から微生物まで様々な生き物の調査・研究を行っている。また北大生の体験実習・研究の場所としても利用されている。1970年代に事務所周辺を樹木園として整備して以来、研究林の一部を一般に開放している。そのため散策やバードウォッチング、学校遠足などを通じて近隣の方々から親しんでもらっている。
樹木園エリア内には昭和52年に建築された「森林資料館」があり、樹齢数百年を超える巨木や野生動物の標本など、約4,400点もの所蔵品がある。その 中には100年以上前の古い標本もあり、歴史的価値も非常に高い。隣接する「森林記念館」の一部は昭和10年に建設され、苫小牧市内唯一の国登録有形文化財で、内部にはかつて木を切るために使われていたマサカリやノコギリなどの古い道具約250点に加えて、研究林の昔の姿を写した白黒写真が展示されている。
昨今、大学の予算規模が年々減少していく中、開館のための人件費を捻出できない状態にある。そのため森林資料館と森林記念館の開館が月に一回(平日)に限られており、休日に散策してくださる訪問者の皆様に貴重な資料を見てもらうチャンスがほとんどない。また樹木園の案内看板が不十分で、特に初めての訪問者はどのように林内を利用したら良いのか分かりにくいという問題点があった。そこで森林資料館、森林記念館を休日にも開館し、樹木園内の案内をリデザインすることで、エリア全体を今よりも充実させられるのではないかと考え、訪れた方々に苫小牧研究林の魅力をもっと知ってもらうべく、クラウドファンディングで運営・整備資金を募集することとした。
●歩行
以前にも、研究林を訪れたいと何度か計画していた。その折は、苫小牧市街北方の美園町から研究林に入り、約1.5キロほど北西に林道を辿れば、研究林本部センターに至ることが分かっていた。しかし、何分札幌からの距離と時間を考えると慎重な計画を立てねばならない。今回たまたま、7月上旬夏日に近い気温の中、息子の車の運転で「北大苫小牧研究林」を訪れる機会があった。
(苫小牧研究林本部入口1)
(苫小牧研究林本部入口2)
研究施設の集まる中心部には、広い駐車スペースがあり、車を置いて敷地内の散策に向かう。ここ入口には、研究林の案内標識と石造りの門柱があり、昔に使われていたと思われる丸太組み山小屋風の入林受付案内所らしき施設も座る。入口に入ったすぐの場所には、左に研究林管理棟、右手に「森林資料館」が配置されている。管理棟入口の横には大きな白山シャクナゲが植わっている。森林資料館は2階建ての建物で、1階に丸太原木、樹幹枝標本、キノコ菌類、大型・小型哺乳類、猛禽鳥類が展示されている。2階には、板材、木工品、製炭製品、昆虫標本など、森林資源の恵みが多数展示されている。「森林記念館」は、昔の林業の道具類が展示されているようだが、こちらの見学は省略した。資料館前のアプローチを歩いていて気が付くと、エゾシカの糞も展示されているようだ。
(管理棟と森林資料館入口2)
(管理棟横の白山シャクナゲ)
(森林資料館内部2)
資料館の見学の後、屋外に出て、湧き水を水源とする幌内川の清流と池を巡り、林間の涼風を大いに満喫した。現在、川の魚や生息する生物についても調査・研究が進められている。草むらを歩いていると、人懐っこくエゾリスが飛び出してくる。今日は大いに命の洗濯が出来た。
(エゾシカの糞)
(幌内川風景4)
(苫小牧研究林地図5)
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月寒東を歩く(2)
http://northman.exblog.jp/33584653/
2023-11-10T07:25:00+09:00
2023-11-10T07:25:02+09:00
2023-11-10T07:25:02+09:00
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札幌東部
(ツキサップじんぎすかんクラブ2)
「八紘学園」の敷地に入って果樹園と反対方向に向かうと、すぐに環状の古池と牛馬頭観音碑に出会う。古池の水面は藻に覆われているが、それでも時節柄睡蓮やコウホネの花がところどころに顔を覗かせている。牛馬頭観音碑は、学園で亡くなった牛馬の慰霊碑で、玉垣状の敷地に建った自然石の表面には、微かに「弔愛蓄之碑」と読める。石碑の周囲には大きな葉のギボウシらしき植生が植わっている。学園農場内を縦断して流れる「ラウネナイ川」は、アイヌ語で「深い谷間を流れる川」の意味で、月寒川の支流となっている。水源は北海道農業研究センターの敷地内の池で、川の周囲には縄文期から続縄文期の遺物が発掘されている。
また、ラウネナイ川を渡る橋の袂には、三笠宮殿下が「あやめ橋」と命名した記念碑も座っている。
(円環の古池2)
(八紘学園記念碑とラウネナイ川4)
ラウネナイ川をあやめ橋で渡ると農場の広い牧草地の丘が見えてくる。この丘は、以前「月寒グリーンドーム」があった場所でドームの解体撤去後、一時、北海道日ハムの新球場の用地候補にも挙がったことがあった。確かに札幌ドームには近いが、ボールパークにしては手狭と思う。結局、新球場の建設地は北広島に決着した。この牧草地は、多目的に活用されているが、最近では「ブランチ札幌月寒」の複合商業施設や「日本医療大学」の札幌校舎も座っている。また、今年7月~10月の期間限定で「木下大サーカス」のイベントテントが張られている。
日本医療大学は、元々、清田区真栄の社会福祉法人が経営する専門学校が母体で、平成3年に保健医療(看護・介護、リハビリテーション)学部をここ月寒本キャンパスに移転した。真栄キャンパス(アンデルセン福祉村)では総合福祉学部を置く。ここで注意したいのは、この学校は医療を謳っているが、医学部はなく病院も看護、リハビリ、理学療法の教育機関で、別に老人介護施設を併設している。
(八紘学園牧草地4)
「北野通」を信号交差点で横断しポプラ・白樺並木を通って、八紘学園の農場と牛舎、サイロなどを眺めながら、農産物直売所の施設に立ち寄りここで昼食休憩とする。通常日の正午近くだったためか、買い物客や観光客もチラホラと閑散して、野菜、乳製品販売商品の種類、数も少な目であった。それでも学園実習生の育てたトマトを買い求めたが糖度が高く美味であった。
(八紘学園農場4)
次に、学園内にある石庭と「菜洗神社」に立ち寄る。この神社は、元々、千葉県市川市に住む岡田信氏の邸宅内にあった私神社を、八紘学園創立者の栗林元二郎氏が社殿、鳥居、灯篭、狛犬一式を引き取って、昭和15年にここ月寒東に移設した。特に、狛犬の足で踏んでいる玉の透かし彫りと入れ子は、芸術的価値が高いとされている。
( 菜洗神社4)
すぐ近くの国道36号線月寒通に出て、地下鉄東豊線福住駅から地下鉄に乗って帰途に就いた。
(全体歩行図)
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胆振東部地震復興視察会に参加して
http://northman.exblog.jp/33566359/
2023-11-01T15:23:00+09:00
2023-11-02T16:32:03+09:00
2023-11-01T15:23:25+09:00
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道内各地
平成30年9月6日(2018.9.6.)、胆振東部地震が発生する。震源は胆振中東部・厚真町とむかわ町との境界内陸部で深さ37km、マグニチュード7の規模の大地震だった。震源に近い厚真町、安平町、むかわ町では、この地震によって、多くの山林や建物等が被害を受けた。北海道で初めて震度7を観測した厚真町では、地震に伴って発生した大規模な土砂災害等によって、死亡37名、負傷61名の人的被害と、田畑や建物等も大きな被害を受けた。また、地震発生直後、全道の電力需給の約半分を供給していた苫東厚真火力発電所が地震による損傷で停止し、道内295万世帯で大規模停電(ブラックアウト)が起こった。
●胆振東部地震被災地復興現地視察会(2023.10.28)
北海道胆振総合振興局では、地震発生から5年を経過した被災地の訪問を通して、震災の経験や記憶の風化を防止するとともに、被災地との関係を深めることにより、引き続き被災地を応援してもらうことを目的に、厚真、安平、むかわの被災三町をバスで巡る視察会を初めて開いた。札幌市や北広島市、岩見沢市から市民13名(募集定員25名の半数)が参加した。一行は大規模な岩盤地滑りが起きた厚真町の日高幌内川周辺や、被災した中学校の再建に合わせ新設した安平町の早来学園、幸い最小限被害で済んだむかわ町の穂別博物館などを視察。各町の職員らから、当時の被害状況や復旧工事の進み具合について聞いた。
(震災復興見学会バス走行図)
●安平町「早来学園」
午前8時に札幌駅北口を出発した道南バスは、一路、道央自動車道を南進、南千歳から駒里、富岡を経て、9時半頃には早来町大町にある「安平町早来学園」に到着。この学校は、地震で大きな被害を受けた早来中学校の再建に合わせて、一体的に整備され、小中一貫の安平町立早来学園義務教育学校として、令和5年4月に開校。隣接する図書館等の施設は、地域開放されている。敷地面積3.4ha、1階鉄筋コンクリート、2階木造、大・中アリーナは鉄骨造となっている。児童数308名、学級数20(含支援学級9)、教職員40名。教室のほか、キッチン、アトリエ、スタジオ等を備える。
(早来学園1-4)
(早来学園2-4)
(早来図書館2)
●道の駅「あびらD51ステーション」
トイレ休憩と小買い物のため、国道234号線を早来地区から追分地区へ12キロほど北へ向かい、「道の駅D51ステーション」に立ち寄る。この施設は、安平町の復興のシンボルとしても位置付けられ、人・もの・文化等の地域資源を集結させて町内外の人々との交流と繋がりを生み出し、町全体の活性化を図るための地域拠点として、平成31年に開業した。追分地区(自治体統合前は追分町)は、室蘭本線と夕張線(現石勝線)の交差する地点にあり、古くから鉄道の駅として栄えた。道の駅の敷地内にある機関車庫とD51蒸気機関車、特急機関車の実物展示は、その由来を象徴している。
(道の駅D51ステーション3)
●日高幌内川砂防堰堤
追分地区を後にして、バスは南の厚真町中心部を経て東方へ進み、日高幌内川の復旧工事現場に向かう。二級河川厚真川水系では、地震により大規模に崩壊した土砂が対岸にぶつかり、広範囲の河道閉塞が確認された。湛水位の上昇による越流水で河道閉鎖土砂が侵食されて決壊することにより、下流の幌内地区や市街地への大規模な土砂災害が発生する危険があったため、北海道開発局は緊急的な河道閉鎖土掘削や水路工、砂防堰堤等から構成される大規模河道閉塞対策を実施した。現地では、岩盤地滑りが350mにわたって起こったことで、土砂の移動と丘上の樹木の向きに反作用の結果が目に留まる。復旧工事はまだ途上でこの先も引き続く。ここで初めて折り畳み式のヘルメットを装着経験したが、通常の立体型に比べて余り安定性は良くない。簡易で一時的な利用目的に使うのだろう。
(日高幌内川1-4)
(日高幌内川2-4)
●厚真町北地域防災コミュニティセンター「ならやま」
地震で大きな被害を受けた富里、高丘、吉野の各地区集会場に代わるコミュニティ施設として令和3年に木造平屋建ての施設が完成。平常時の交流や防災備蓄機能、災害時の避難所、支援物質保管・供給機能、非常用電源などを合わせ持つ複合施設となっている。今回の視察会では、日高幌内川の砂防堰堤を視察の後途中の富里に戻り、ここで施設見学を兼ねて昼食休憩となった。元々ここに位置した厚真町の浄水場も地震の被害を受けたが、現在は復旧して飲料水を供給している。なお、「ならやま」の玄関先横には、松浦武四郎の記念碑が移設されて座っている。北海道探索の折、武四郎がこの付近を通ったのだろうか。
(防災コミュニティセンターならやま3)
●むかわ町穂別博物館
昼食休憩の後、さらに北東の穂別地区に足を伸ばして、恐竜の展示で有名なむかわ町穂別博物館に向かう。この施設は昭和57年穂別町立博物館として開館。クビナガリュウを中心に穂別の化石を紹介する。平成25~26年、中生代白亜紀の地層からカムイサウルスの発掘調査、全長8mの全身骨格であることが判明し、より大きな展示室建設の必要性があった。平成30年9月6日、胆振東部地震発生するも、幸いなことにカムイサウルス実物化石に被害はなく、9月30日に博物館再開する。カムイサウルス(むかわ竜)は、「7,200万年の時を超えて現代に甦り、未曾有の震災をも無傷で乗り越えた」ことから、むかわ町の震災からの復旧・復興のシンボルとなる。平成元年、カムイサウルスの新属新種が認定され、学名「カムイサウルス・ジャポニクス」と命名される。今後、令和8年博物館のリニューアルオープンを予定している。
(むかわ穂別博物館3)
●道の駅「むかわ四季の館」
穂別地区からまっすぐ南へ海岸に向けて25キロほど進み最後の立ち寄り先、道の駅「むかわ四季の館」に到着。ここは、日帰り温泉、宿泊棟、中規模ホール、温水プール、トレーニングルーム、図書館などを備えた多目的複合施設で、平成22年にノーベル化学賞を受賞した鈴木章氏の記念顕彰コーナーもある。もちろん物産販売ショップもある。しかし、今年はむかわ名産のししゃもが不漁で漁業組合では今年の出漁を中止して、資源の育成を待つことに決定したらしい。四季の館は平成9年開設、平成15年道の駅に指定を受ける。
15時半頃に、バスはむかわ四季の館を出発し、一路北へ道央自動車道に乗り、予定通り17時には札幌駅北口に到着し、今回の視察会ツアーは解散となった。全体を通じての私の感想として、視察の距離範囲が広く、狭いバス座席で10時間近くかなりタイトなツアーであったが、山が動くような地震の恐ろしさは視察ツアーを通じて伺い知ることができたと思う。
(参考資料:北海道、胆振総合振興局、厚真町、安平町、むかわ町「胆振東部地震被災地復興現地視察会」、三町配布パンフレット各種)
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月寒東を歩く(1)
http://northman.exblog.jp/33564706/
2023-11-01T06:59:00+09:00
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札幌東部
月寒丘陵の一角で月寒の東に当たるため、戦前までは月寒川の東側を「東月寒」と呼んでいた。現在の住居表示は、月寒中央通、月寒西、月寒東の3地区に整理されている。東月寒という名称は、学校や連絡所、町内会、公園などに慣例として残っている。 現在の「月寒東」地区は、東西を吉田川、望月寒川、南北を国道36号線「月寒通」と「東北通」に囲まれた範囲にある。
月寒東の開拓は、明冶4年岩手県の移住者6軒が福住に入植して開拓を始めたところから「六軒」と呼ばれていた。白石・月寒の本格的な開拓は、吉田善太郎の功績に負うところが大きく、農地の開拓、用水路の開削のほか、社会貢献にも尽力し第7師団第25歩兵連隊の兵舎用地の提供や月寒小学校の開校にも貢献している。
また、雪印や酪農学園の創立者黒澤酉蔵の実弟・黒澤和雄は月寒東で牧場を経営し、地域の酪農業の発展に貢献した。後年、自身の牧場を千歳に移転するに当たり、それまでの牧舎とサイロを地域の町内会に寄贈した。この施設は、現在「東月寒緑地」の「東月寒白樺会館」として、町内会の活動、親睦の拠点となっている。また、敷地内にあるシラカバ林は、永久保存林として指定されて守られている。
「八紘学園(北海道農業専門学校)」は、月寒の市街地に隣接して広大な63haの敷地を有し、栗林元二郎が創始した。2年全寮制で文部科学大臣から全学科を職業実践専門課程校として認可されている。昭和5年に開校、令和3年には開校90周年を迎えた。札幌市と日高町に農場を持ち、札幌では、野菜・花き・果樹などの園芸と酪農を学ぶことができ、日高農場では、乳牛や肉牛の育成管理のほか、令和2年から本格的な和牛肥育にも取り組んでいる。校内の直売所では、実習でとれた野菜や果物のほか、搾りたての生乳で製造する牛乳・乳製品等が販売され、地域住民などで混み合う。学生も実習の一環として消費者との対面販売を経験でき、八紘学園は「農都共生」の場となっている。
●歩行
地下鉄東西線に乗り「南郷18丁目」駅で下車する。月寒東地区を歩く前にまずは、駅付近に立ち寄る。この辺りは白石区内で駅から地上に出て「南郷通」を東方向に進む。次の信号交差点を南に折れるとすぐ「吉田山公園」がある。この公園は0.5haのやや広めの街区公園で、おなじみの児童向け遊具類がある他には特徴がないが、それでもパーゴラの前に以前にはなかったシャワー付きの渡渉池が出来ている。後述する5.6haの地区公園である「吉田川公園」ほど知られてはいないが、「川」と対比して「山」が付くのが面白い。戦後まもなくの頃まで、この辺りは山もないのに何故か「吉田山」と呼ばれていた。
(吉田山公園2)
(s25s50月寒東地図)
吉田山公園から南に少し進むと「白石サイクリングロード」に出る。この道路は、昔、北海道鉄道札幌線(後の国鉄千歳線)跡を住民の強い希望でサイクリングロード「愛称:白石こころーど」)として改修・保存した。ここにかっては札幌線の貨物駅「大谷地駅」があった。駅跡地の現在はサイクリングロード脇に、1.2haの近隣公園「白石東冒険公園」として活用されている。昭和36年貨物駅廃止、昭和48年には千歳線の新線切り替え工事で廃駅となった。現在の地下鉄「大谷地駅」は、この東1.5キロ先の厚別区内にある。「冒険公園」とわざわざ強調したのは、少し大きな子供の冒険心をくすぐる大型のコンビネーション遊具、ターザンロープ、自転車乗りの練習のできるサイクルパークなどに特徴がある。
(白石東冒険公園2)
冒険公園を後にさらに南へ進むと「東北通」に出る。この道路は月寒地区の東北に当たるのでこう呼ばれているが、早くからの地域の幹線道路で、白石区と豊平区。清田区の境界を横断し、現在でも路線バスが走っている。東北通を北西に500mほど進むと「東月寒通」に交差する。この角地には土地の起伏に富む1haの近隣公園「東月寒公園」がある。この公園の北縁には立派な親水施設・水路付きの渡渉池があって、夏の盛りの子供たちの人気の高い場所になっている。起伏のある土地は、丘上に高圧送電線の走るちょっとした丘陵を形成し、冬には快適なスキー山になるだろう。
(東月寒公園4)
東月寒公園から東月寒通に沿って南東方向に500mほど行くと「東月寒緑地」がある。この緑地は、ここで牧場を開き酪農業を営んでいた黒澤和雄氏が自身の牧場を千歳に移転する際、地元の町内会に牧舎とサイロを寄贈した場所で、町内会で後を整備して町内会の活動と親睦のため、「東月寒白樺会館」として活用している。敷地の半分ほどはシラカバの永久保存林と指定されて樹林が残されている。ここからは東月寒通を離れて南東方向へ街路を下って行くと緑地に隣接して「しらかば台小学校」の横に出る。この小学校は、大谷地小と月寒小から児童生徒400名を分割して、昭和50年に開校した。校章がユニークで雪の結晶を象徴する白い六角形の中にサイロと白樺の樹が描かれている。
(東月寒緑地4)
(しらかば台小学校2)
小学校の横をそのまま坂を下って低地に至ると「吉田川」に出会う。吉田川は豊平区と清田区の境界を北に流れ下るが、北海道農業研究センターの敷地内に発し、吉田農場の中を流れていた自然河川で、護岸整備して用水路とされた。今時期は川中の水面が見えぬほど雑草が繁茂している。吉田川に沿って500mほど南へ遡って行くと5.6haの地区公園「吉田川公園」の北縁のパークゴルフ場に至る。ここからは公園の北縁を北西に進み、東月寒出張所方面に向かう。500mほど坂を上ると「とんつき憩いの広場」という面白い名の樹林緑地がある。「とんつき」という語は聞き慣れないが「東月寒」を洒落て言い換えたもののようだ。この緑地は東月寒地区町内会連合会が管理している。この緑地の一角に「協心拓地」の題字を彫り込んだ大きな自然石と由緒書きの副碑が座る。この碑は「二里塚開基百年之碑」で、二里塚(この辺りのかっての地名)の農事実行組合が創立50年を記念して建立した。
(吉田川と吉田川公園2)
(二里塚開基百年之碑2)
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